よくしたものだ

 『アオフェス2021 舞台人による短編映像グランプリ』、10分の部・5分ワンカットの部・即興バトルの部併せて27組の作品を見た。組によって、映像が全く異なっていることが興味深かった。皆、違って当たり前なのだが、そのことにあらためて驚いた。映し出されたそれがその人の顔あるいは表情だとすれば、その向うのゴロッとある、人まるごとを見る気がする。映像に対する考え方・捉え方が、作品の数だけある。似通っているようで住む世界は一緒ではない、別々だ。
 1作品終わるごとに審査メンバーや作品制作者側からの感想・コメントが入る。これがけっこう役に立ち、手引きとなり、いま見た作品に対する想いがよりふくらむ。
 さて、私は10分の部で参加した。昨年2月の『ハルヨコイ 舞台人が作った短編映像を一緒に楽しむ一日限りの配信フェス』に引き続いて、だ。『ハルヨコイ』では、仲間に撮影してもらったが、それからビデオカメラを購入し、自らせっせと撮っていった。作品テーマは、自身の「日記を語る」。1年を10分ほどにまとめ、2000年から2019年の20年分撮るのが目標だった。それまで「日記を語る」制作作業は、2020年春頃から、家の中で、タブレットで撮ってはいた。そして、『ハルヨコイ』に参加。そこでの反省から、より映像で見せようと思い立った。ビデオカメラの使い方がよくわからないまま、納得のいく絵柄を追い求めていった。わかっていないからこそ、できることがあると思う。また、映像は1回性の要素が強いようだ。芝居の場合、ケイコを積み重ね、舞台でベストの成果を上げる。映像では、1シーンを例えば5回ぐらいくり返し撮り、編集段階で、あ、これいいなとそのうちの一つの絵柄を取り出す。このように、たまたま撮れたものを大事にする。出会いのようで、何か人生に近いものを感じる。橋を渡るシーンが ある。先ず橋の名称が刻まれたプレートを映す。車が横切ってゆく。名称が見え隠れする。あ、これ面白い。それで、はじめは単に川を横手に見ながらの構図で撮ろうとしていたのを、橋を行き来する車やバイク越しに川が見える光景に切り替える。
 一人で自らを撮っているので、失敗が多々ある。ワイシャツの胸ポケットにボールペンを差したままで、これはおかしいだろう。部屋に入りこむ陽射しが逆光となり、表情が真っ暗で見えない。手を前へ持ってくる、爪が伸びている。これらは、チェックする人間がいないので、パソコンを開いてみて、あちゃあ!となる。しかし、苦にしない。撮り直せばいいだけのこと。失敗をやらかすほど、上達する気がする。『アオフェス』があったからこそ、自らが作り出すものに励めた。71歳、やれることができた。ある参加者が「賞はあきらめた。やりたいことをやろう」と。私は、「賞はいらない。やれることをやろう」。結果、私の作品は賞の対象とはならなかった。よかった。私のようななまくらな男が賞なんかとってしまったら、それ以上やる気がなくなってしまう。とんでもないことになる。私にとって、人から評価されるほどおそろしいことはない。樹木希林が言っている通りだ。
 老いてくれば、歩幅が狭くなり、ちょこまかとした歩きぶり。根気も続かず、休み休みでやっていく。自らの生死について考える。欲はなくなった。からだがしんどくて、そういう気にならない、よくしたものだ。これが、いまを生きる私。

 『アオフェス2021』 1月20日までアーカイブ視聴できます 直前までチケット購入できます
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